たとえなにかが
夜の1時、無意識とは何か。普段は開かない投稿画面がここにある。
一時間まえくらいに寝るつもりだったんだけど、ライムスとスチャの曲が出たってspotifyを開いて、その下にあったボブディランを押して気がついたら今だ。
未曾有の事態はいつだって初めてであるから未曾有だが、未曾有の事態は2回目だ。
何を信じていいかわからず、水を恐れ、焦燥にかられた意見が人を分ける事態が、少しアレンジされた2回目。
9年前の今頃、ばあさん達がケロっと平常運転しているのをみて”情弱”という言葉が浮かんだが
あぁ、おれが一周目なだけなのか。ミサイルの雨からはじまった先人たちは何周目か数えるのもやめているくらいか。
その時に初めて地球、世界、社会、国、人というものを見た気がする。
風に乗ったなにかを恐れている。突然のさよならを恐れている。
守れるものは守りたい。
ただいつだって諸行は無常である。この世界は僕のために作られていないという前提自体が絶望的な無情であるかぎり。
人はきっと強い。これからもまだ人類は未曾有の事態を何周もする。
僕も何周もする。間で忘れる。それを繰り返す。
あなたもまだ何周もすればいい。間でわすれる。それを繰り返す。
霊的なものを信じないで生きてきたけど歳をとったかな、最近少し目に見える物質以外の力を感じる。
それは花子や誰かに会うような事ではなく、誰かのほんの少しの気持ちや愛情や誇りやなにかが、人を介して電気が伝わるように物事を動かしている。
時に都合として、情として、忖度として、世界を緩やかにコックリさんのように動かしてるんだと知った気がする。
たとえなにかがサヨナラの手紙を届けようとも
ほんの少しの気持ちや愛情や誇りやなにかが残りまた受け継がれていく。
その緩やかな輪廻が地球を一周する頃にまたきっと僕たちは忘れられる。