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たのしいことばかりありますように

武蔵小杉にそびえる2本のタワーマンション。
その2本はとても高く遠くからでもよく見える。
タワーマンションの一階に入っている中華屋が好きだ。とてもよく頑張るし美味い。
少し無愛想ではあるけれど悪いやつではない。
「タワマンの中華」僕はそこをそう呼ぶし、みんなもそう呼ぶ。
きっと店も自分を説明するときにそう呼ぶと思う。
違う街にあれば店名で呼ばれただろうし、一本独鈷の存在としていられただろう。
でも、タワマンの下にある「タワマンの中華」だから商売が回ったのかもしれないとも思う。
料理がきた。ここの餃子は旨い。
筆を進める。

なんとなく他人の手の中に記すものではない気がしたのでSNSではなく独自ドメインのブログを使うことにした。
我ながら自分らしい神経質さだ。

この話は長くなる。
食べ終わるまでに終わらないかもしれないな。

2008年、24歳。俺にとっては子供時代が終わり大人第1期が始まった年。
同年代よりだいぶ早めに大人になることになり音楽を手放す可能性もあったが、なんとかミュージシャンであり続ける為に溺れながら泳いでたような日々だったと思う。

タカシは社会人1年目
馬場はたまにライブハウスで見かける知らないヤツで
タケルはまだアメリカにいて
将太に関してはどこで何してたのかも知らない
そして双子はサイタマノラッパーの一作目に全力を注いでた
そんな年だった。

すでに演奏仲間だったベーシストのフルタナオキから電話がきた。
「太整に誕生日に欲しいもの聞いたらビックバンドが欲しいっつーんだよ。だからビックバンドやろうぜ」

今思えば、この始点の時点ですでに俺たちは俺たちらしい。

そして組まれたビックバンドは20名を超える大集団となった。
うら若き女学生からorigami productionの名アーティストからジャズ界からヤパニから半ば人生を棒に振った不良まで、そこに謎の会社員ラッパーの双子という味付けがされ闇鍋が出来上がっていった。

東京でそれなりに活動していくなかで、それだけの人数が演奏するならいいかと俺は
ライブのたびにステージでジャンプを読んだり、ゲームに没頭したりした。
たまにのっぴきならない箇所だけ演奏してはまたジャンプを開くような役割を担っていた。
その様を「スーパースターさいとうりょうじ」と皮肉めいて双子が呼び始めるまでにそう時間はかからなかったと思う。

今に至る、世界一無名なスーパースターの誕生である。

ステージでマンガを読むヤツとステージで小銭を配るヤツ。
シンパシーは簡単に僕らを繋げたし、当時おれの送迎担当だった面白サラリーマン黒川貴史にも簡単に派生した。

そうして
既にバンドを担当していた太整、フルタナオキ、北原健太郎に違和感なく俺と貴史が合流する形で、いつはじまったかも分からないP.O.Pというバンドのような活動がはじまった。

特に目標もなく、CDもない。
収入は各々あって特段望むものもない。
ただ遊んでるとクソ面白いから
毎回呼ばれる中塚武さんのイベントの前座を口実に集まっていた。

そんな友達活動を何年か続けたある日、件の中塚先輩から「お前ら一回ちゃんとやれ、面倒見るからCD出せ」というお達しが下る。
年に何度も売上のアテにならない僕らを呼んで憧れのアーティストと並ばせて頂いている恩に僕らは返事の選択肢を持たず、作る予定のなかったアルバムの制作に入ったのである。

大体それくらいの時期に、太整が自身の作家としての活動を進む為にP.O.Pを辞める。
やるもやめるも無いような活動だったので全く滞りなく工場長の座に俺が就任する。
さらに、ずっとナオキとオレと3人でなんでもやってきたドラムの北原健太郎が「おれ、地元に帰って木こりになるわ」と言い出す。ワードの面白さに誰も引き留めずにすんなりと脱退する。
直後に決まっていた中塚さんの札幌イベントという外せない旅行の為に、既に俺と週8日を共にしていた馬場がこれまた滞りなくドラムの座に就任する。
ちなみに参加初回だった為、俺らの遊び方をナメて当日入りした馬場は、のちに何度もその札幌旅行を前乗りしなかった事を後悔することになる。

斯くして、双子と俺とタカシと馬場とナオキと木こり見習中の北原健太郎という布陣で、最初にして最後になるはずだったアルバムの制作が始まった。

ここまでがのちに「たのしいことばかりありますように」と題して発売する僕らのファーストアルバム、そして「watch me」という名で飛んでいき僕たちを予定より長く活動させた曲、に至る経緯である。
2024年末の今日、ここに何かを記す前に、どうしても整理しておきたかったストーリーである。

それからのことは裏表のない活動でお見せしてきた通り。

入江悠による長回し一発撮りのMVが話題になり
ヤマザキタケルが雪崩式に巻き込まれて行く
調子に乗って怒涛のシングルを発売し
全曲コラボのセカンドアルバムを出した
突然タイに毎年行って大きなフェスに出るようになって
サマソニにも出たし、おかげで復活直後のd’angeloだって見たぜ
ベースが何度も変わって、流しのケンゴになって将太になって
勝手にはじめた勝手に歌謡祭というフェスは町のお祭りと化した。
アルバムは3枚目、4枚目と重なっていった。

日本中いろんな所に行った。
色んな人と知り合いになった。
宇都宮なんかメンバー全員いつ移住したって困らないくらい今じゃ”俺たちの地元”だ。

遊びならいくらでも発明できて、どこにいたって俺たちが1番面白い集団だった。
白い目で見られそうになっても、獣神サンダーライガー楽屋最強説の如く演奏力でねじ伏せた。
気づけば俺は「P.O.Pのさいとうりょうじ」になったし、メンバーのアイツらも多かれ少なかれ「P.O.Pの誰々」になった。
こんな事、一生続けられるよなって言いながら、楽しい事ばかりの日々は10年目に入っていった。

40歳になった俺が勝手に立ち止まった。
このままでいいはずなものをこのままではダメとした。
それはコイツら全員の将来を思ってのお節介だったが、自分の名声の為なのかもしれないとも思う。

人には走りやすいフォームがある。

30歳を目前に控えたあの日の俺にとって
そして30代を駆け抜けた俺たちにとって
P.O.Pというフォームはとても走りやすかった。
悲しみはユニークで吹き飛ばし、いつもふざけた姿勢で損得なんて後回し。
既存のバンド活動と一線を画している事に自負を持ちながら10年間躓く事なく走った。

10年だ。

10年もあれば人は嫌でも成長してしまう。
タカシに至っては名前まで熱々小籠包に変わってしまう。
いま2024年に、ここから走るための俺たちのフォームは同じではなくなった。

7人の才能を誰よりも分かっているのは俺だ。
これに関して異論は認めない。
誰がどう言おうが絶対に俺が1番分かっている。
各々が持つ才覚を如何なく発揮する。
俺たちの人生を俺が勝手に考え抜いた末に、
「P.O.Pの誰々」ではなく各々の名前で走るべきだと思った。
各々のフォームで全員、全力疾走するべきだと思った。
そして何より絶世の天才”さいとうりょうじ”こそを全力で走らせなければいけないと思った。

2024.6.16に解散を発表する。
双子といくつかの話し合いを経てメンバーにそう告げた。
多少の話し合いはあったが、多分に俺からの一方的な通達に近かった気がしている。

そうして俺は
2024.12.20 P.O.Pを解散した。

これが解散に至るまでの俺の視点。

メンバーが、P.O.Pが、どう思っているかは俺が語るものではないから
ここに記したのは、10年間P.O.Pという工場を1人切り盛りした”さいとうりょうじ”の視点。

正直、このバンドがなければ二度と会わないような関係だったら解散出来なかったかもしれない。
でも、俺たちはいつまでも遊びの天才で、麻雀ばっかして、死ぬまでこのまま変わんないと全員が分かっている。
だからこそ解散できたと思う。
数日経った今日だってLINEグループでは誰が何回泣いたかゲームの罰金の集計を大笑いでしているんだ。
やっぱ、おれたち死ぬまでともだちだよな。

最後のワンマンライブとアフターパーティーを終えて、タカシと捕まえたタクシー。
元住吉の24時間営業のラーメン屋を出た朝の5時。
お互い自転車に乗り帰路に着く。
さっきまでステージで見栄を切った男に似つかわしくない朝に思い描いた未来は

タケルのピアニストとしての成功と
将太の不自由のない幸せな生活と
馬場の変わらない平凡な日々と
双子がこれからは違った形で出会わせてくれるであろう未知の数々と
年始に迫った熱々小籠包の個展の事。

泥のように眠って起きて、山のようなSNSとLINEの通知、鬼のような腰の痛みと骨の軋みに苦笑しながら食べる夕方の中華。

ここの餃子は本当に旨い。

そろそろ俺の音楽部屋に戻ろう。
ソロアルバムを完成させなければいけないのだ。

冬の寒さに特有のビル風が追い打ちをかける。
着込んだ上着に身を潜め、おぼつかない足取りで街を行く。

背の高い2つのタワーは変わらずそこに立っている。

これからも
たのしいことばかりありますように