さいとうりょうじ Official Website

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2015/11/27 update

2015年11月26日 <今思うこと>

number32

32歳というものになった。
確実に16の時おもっていた32歳とは違う形の。

ぼくはどうにも今の自分を信じすぎるタイプなので当分そのギャップは埋まらないだろうが。
こっから先は乱文となります。
ただただ今おもっていることを書くので。

そもそもSNSのありかたをこの1年くらい考えて、なんつーか
ありゃ乗り合わせたエレベーターの中みたいなもんだと思ってるんです
なのでおれの単一方向な思想というものは書くべきじゃないと思っていて
エレベーターで知らない人に俺の人生語るみたいになっちゃうんで
ただブログはかろうじて良いかなと
道端で弾き語りしてるストリートミュージシャンみたいなもんで
一応見る人の意思で立ち止まり、1クリック暖簾をくぐってくれるのであれば
ざっくばらんにぼやきますよと
そう区切ってるんですね。

で、まぁ最近会う人にはとにかくいうんですけど
まぁ20代の俺は、今の俺が導いた現状の答えからすると
不正解の旗を掲げて生きたなと
その分しわよせがきてるなと思うのですが
23くらいの俺にあったら4hくらい論破してやりたいですが
まぁ全てあって今たどり着いた答えなんで許すとします。

なにかっつーとまずは
誰かの為に生きる
ということがまぁ大事だなとおもったわけです。

これは恋愛的な意味ではなくて、全てのDoん対してなんですけど
自分が生きる為の自分の欲求にたいする自分の答え
って結局誰とも交わらないので極論死んでるのと同じなんですよね
2次元であることに酷似するというか
生きるということの意味は(目的という意ではない)
誰かと摩擦する ということだと思うんですね。
単語にすると 共存 です。
存在の証明というのは、他者が自己を認識することで成るので
共存がなければ自己完結なのでこの世に存在しないのと変わりないわけです。

で、そうなると、 Do の先に 誰かの為に がないと
Doが意味を持たなくなるわけですね。

これは恩を売るとかそういった類のことでもありませんが。

とにかく存在の証明として他者からの認識が必要とすると
誰だって 嫌なことは背く=認識せず になるわけで
ようするに Doを認識される為には 嫌なことでない ことが前提になるわけです。

優しくしなくてもいいのですが、少なくとも 誰かの為にとおもってDoが必要という。

まぁいいか。
なので演奏も、やはりそうで、誰でもいいんだけど、誰かの為に演奏をする必要があるわけです。
(決してクライアントに向けろ なんて下らないことではない)
それを今気づくという。
今まで正反対の旗を掲げちゃってプレイしてきた自分が作った道の上でそれに気づくわけですから
毎日赤面の面持ちなのですよ。最近は。
そして仕事欲しいなーなんて思っても、そりゃ20代の積み重ねは大きく、それなりに俺を他者に影響、知らしめてきた自負もありますから、簡単にはこねーわな、と。ひとつひとつ毎日プレイをし直していこう、とそう思ったんですね。

話は変わりますが、ギターを弾き始めてざっと20年が経ちます。
小学校6年生で、実家のコンビニの深夜のバイトのバンドマンにzo-3を渡されてから20年です。

天才だなんだといわれますが、物事20年もやればどの職種でもある程度それなりの肩書きがつくってもんです。
逆にそこに至ってない部分のほうが多く愕然とエコーを吸い込む夜ばかりですが
まがりなりにも20年楽器を弾いてきたんですね。僕。

で最近思うんです。
ここ5年くらいはこの指弾きのプレイスタイルが確立してまして
これはざっくり言うと

“木と元の振動を感じ波長の反復を皮膚
の何mmで制御する為にその距離を全身で調整する奏法”

なのですが
まぁダイレクトに楽器の 
<ここ鳴らして>とか<もう少し長め>とか<浅くかすれるように>
というオーダーの声が聞こえるやり方なんですね。
それに答え続けるというか。

で5年もやると
俺が楽器を弾いてるのではないのではないか という考察にいたるわけです。

大概演奏てのは

楽器を使った人間の表現
と思われてますが、完全に逆じゃないのではないか
音楽が人間を使って表現している
のではないか、おれはただの媒介である

ということですね。

で、やはりこれはとても腑に落ちていて全員そうかは知ったこっちゃないんですけど
おれはそうだなと 思うわけですね。
音楽はそうだなと。

とくにタケルとのインストのduo活動がありますが
あれは良い時悪い時はっきりしていて

脳で会議をして腕に伝達して弾く
という作業によって発音の納期が遅くなる時は大概悪いのです。

二人とも無心に近く、ただそこにある周波数(メロ、ハーモニー含む)に導かれるまま
弾かされていく
とありえないところで二人の音が合致したりするわけです
(製品版のAlfeeの後半 一瞬のブレイクなんかがそれです)

なのでね人間ごときが音なんて大きい存在を 使ってやろうって発想がおかしいんですよ。
原発はコントロールできないなんてことは想像できるのに
ギターを政治発言の表現ツールにして、音楽も人間が物のようにコントロールできないことには気づかな、
あ、失礼、この話はこの辺で。

最近はアナログレコードを聴いています。
僕はどちらかというと未だに
CITY派ですし、資本主義肯定派ですし、デジタル便利万歳派
なんですけど
レコードってのはそんなん吹き飛ばすぐらい圧倒的に物が違うんですね。
1983生まれでCDだけが音楽メディアだったので気づくのに32年もかかりましたが
とにかく情報量の差が異常
これデジタルデータならイメージ的には1曲でテラとかの表現力
とくにロックバンド物のDrumsを聞き比べると顕著だけど
あきらかになってる音が見える
これをなくした世代が演奏力を低下させたのも簡単に納得しちゃうなこれは。

でもレコードが重くてでかいのはやっぱりいただけないですけどね。

夏から始めた”強制的90sロック再評価期間”(ブックオフで280円の定番ロックを買いまくって絶対聞かなきゃいけないルール)
によってロックのかっこよさをしりました。

そして三名のノーマークだったギタリストに
お前の理想としてるギター像なんか98年に完成してたわ(笑)
と言われました。(勝手な被害妄想)

リッチーコッツェン
ヌーノベッテンコート
スティービーサラス

です。

激ウマでbluesがかっこよくてなんでもできる。
それはまるで鷹村守のように。

あ、ごめん
取り急ぎ報告です

スンゲー話の途中だけどちょっと眠いし飽きちゃったから一旦この辺で公開ボタン押しちゃいます。
すんませんが今後とも宜しくお願いします。